2020年6月30日火曜日

日本人元島民が記憶する「軍艦島」での虐待



泳いで逃げようとする者、杭木でイカダを組んで抜け出そうとする者―「ケツ割り」と呼ばれた脱走を試みる人もしばしばあった。(略)津代次さんも、ケツ割りに失敗しておぼれかかった男を船で助けたことがある。

 しかし、水死を免れても、脱走未遂は納屋頭と呼ばれた、いまでいう寮長から半殺しの目にあわされることを覚悟しなければならなかった。

 敗戦が近づき、男手も少なくなると、中国人の捕虜や朝鮮人が大勢連れて来られた。日本人坑夫の住んでいるところからは離れたところにまとめてほうり込まれていたが、狭い島のことである。いまでも喜代さんは、その人たちの叫ぶとも泣くともつかぬ悲しい声が耳に残っている。

 一度だけ声のする部屋をのぞいたことがある。たぶんまだ、はたち前とみえた、朝鮮人の若い男が正座させられ、ひざの上に大きな石をのせられていた。

 敗戦後間もなく、この人たちは本国に帰ったらしい。彼らをいじめぬいた会社の外勤係は、敗戦ときくと、報復をおそれていち早く身を隠したという。

(出典:『朝日ジャーナル』1974517日号)


●解説 

ルポ「ああ軍艦島―ある労働者の転職」から。19741月の三菱鉱業高島鉱業所端島鉱閉山を受けて書かれたもので、軍艦島で働いた日本人一家の軌跡をたどっている。
文中にでてくる津代次さんは、当時78歳。昭和初年、つまり1920年代末か30年代初めに、「不景気の風に吹き寄せられるように」軍艦島にやってきたという。農家の次男で実家には耕す田畑もなく、苦労の末に職を求めてのことだった。
喜代さんはその妻。1950年まで炭鉱で働いた。子どもがやはり端島鉱に務めたため、定年後も会社のアパートで暮らした。74年の閉山後は、故郷のように思っている島を見て暮らしたいとして、隣の高島に引っ越したという。
 「ケツ割り」の事例は、朝鮮人だったと特定されてはいない。軍艦島での炭鉱労働に耐えられず逃亡を試みる者は日本人のなかにもいたのであろう。記事には、「むかしは、おとなでも、会社が発行する『他行許可証』(原文ママ)がなければ桟橋を出られなかった」ともある。つまり、島の外には会社の許可なく出られなかったのだ。



2020年6月23日火曜日

戦後の労働省「戦時中は朝鮮人労働者を差別待遇」



わが国の労働慣行においては古くから国籍、信條、社会的身分を理由とする差別待遇が見られ、特に太平洋戦争中には中国人労働者、台湾省籍民労働者及び朝鮮人労働者に対する内地労働者との賃金面における差別待遇が著しかった。

ポツダム厚生省令は、その一の対象として朝鮮人労働者なるが故に坑内労働という危険有害な作業に就業せしめられていた事実をとらえていたものであった。

国籍を理由として坑内労働の危険作業にのみ就業せしめたり或いは某国人だけを特定の業務に集めそこにおける安全衛生の環境を他の業務に比して悪くしておくというような事実があればそれらの事項はやはり本條(第3条)にいう「労働条件」として考えられる。



(出典: 労働省労働基準局編『労働基準法 上』研文社、1953年)



●解説

1953年に労働省(現・厚生労働省)が発行した労働基準法の逐条解説書より。労働者の最低限の権利を守るために47年に制定された労働基準法について解説する本であり、条文の説明だけでなく、戦前以来の歴史に触れて法の趣旨を説いている。

その中で、戦争中の朝鮮人の待遇について「差別待遇が著しかった」との認識を明示しているのが上記の箇所である。文中に出てくる「ポツダム厚生省令」とは、1946年に労働基準法に先立って出された「厚生省令第2号」のことで、その第一条で国籍や社会的地位での差別を禁止した。(リンク) *官報ファイルの(2/9)38ページの最下段にかけて

労働基準法第3条は「使用者は、労働者の国籍、信条、又は社会的身分を理由として、賃金、労働時間その他の労働條件について、差別的取扱をしてはならない」とし、第5条「強制労働の禁止」は、「使用者は、暴行、脅迫、監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段によって、労働者の意思に反して労働を強制してはならない」ことをうたった。

この本では、戦前の刑法の判例などもふまえ、殴打の類だけでなく、相手を抑制してその意思に反する行為をさせることを「暴行」と認定。①一定の場所より脱出できなくして継続して自由を拘束した場合②後難を怖れて逃走できなくした場合③工場の出入り口に外部からカギをかけた場合――を監禁に当たると指摘。前借金、強制貯蓄はもちろん、親がケガをしたとの電報が来たので帰郷したいと申し出たのに労働させたことなども「不当な拘束」にあたると解説している。

つまり、戦後の日本国憲法の観点から言えば、朝鮮人の戦時動員は、ほとんどが強制労働に当たる。戦時動員だけでなく、それ以前からの、長期間、身体的に拘束して働かせる、いわゆる「タコ部屋」での朝鮮人や日本人の労働も、強制労働に当たるといえるだろう。ちなみに、炭鉱や土木工事現場などにタコ部屋労働が多く、戦中もそれは根絶せずに増えていたことも、この本には書かれている。

2020年6月22日月曜日

軍艦島の展示について日本政府がかつて表明したこと

 201575日の世界遺産委員会における佐藤地(さとう・くに)ユネスコ日本政府代表部大使発言(日本語訳)

議長、
 日本政府を代表しこの発言を行う機会を与えていただき感謝申し上げる。
 日本政府としては、本件遺産の「顕著な普遍的価値」が正当に評価され、全ての委員国の賛同を得て、コンセンサスで世界遺産登録されたことを光栄に思う。
 日本政府は、技術的・専門的見地から導き出されたイコモス勧告を尊重する。特に、「説明戦略」の策定に際しては、「各サイトの歴史全体について理解できる戦略とすること」との勧告に対し、真摯に対応する。
 より具体的には、日本は、1940年代にいくつかのサイトにおいて、その意思に反して連れて来られ、厳しい環境の下で働かされた多くの朝鮮半島出身者等がいたこと、また、第二次世界大戦中に日本政府としても徴用政策を実施していたことについて理解できるような措置を講じる所存である。
 日本はインフォメーションセンターの設置など、犠牲者を記憶にとどめるために適切な措置を説明戦略に盛り込む所存である。日本政府は、本件遺産の「顕著な普遍的価値」を理解し、世界遺産登録に向けて協力して下さったベーマー議長をはじめ、世界遺産委員会の全ての委員国、その他関係者に対し深く感謝申し上げる。




(出典:内閣府ホームページ リンク

●解説

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会は201575日午後、福岡など8県の23施設からなる「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の世界文化遺産登録を決めた。韓国側は長崎県の端島(いわゆる軍艦島)などの施設で朝鮮半島出身者が強制労働させられたことを指摘し、協議を続けていたが、日本側が戦時中の徴用政策を認め、朝鮮人犠牲者を記憶にとどめる適切な措置をとると約束し、決着した。
上記の佐藤地代表部大使の発言はその際のもので、これを受けて、韓国の趙兌烈(チョ・テヨル)外務第2次官は、「日本政府が表明したことを誠実に実行に移すと信用した」として、端島を含む世界文化遺産登録に賛成した。
産業遺産情報センターは、この決定を受けて設立された施設ということになっている。


2020年6月21日日曜日

高村薫「こじれる日韓 和解の道探る責務」



「サンデー時評」第4(「サンデー毎日」1923日号)


 新年早々、日韓は戦時中の強制労働に対する賠償問題に加えて、日本の自衛隊機に対する韓国海軍艦艇の火器管制レーダー照射問題がこじれにこじれている。一日本人としては、この間の韓国の一連のふるまいに不快感を覚えないわけではないが、ちょっと立ち止まって「待てよ」とも思う。
 たとえば自衛隊機が韓国軍の艦艇からレーダー照射を受けたとされる事案は、本来は日韓の防衛担当者レベルで協議する問題だろう。二国間の協力関係を前提にするなら、現場で発生するトラブルはできる限り現場で実務的に処理し、政治問題化するのを避けるのが大原則だからである。
 しかし今回は、事務レベルのやり取りを飛び越えて、官邸が早々に証拠映像の公開を指示したとされている。何のことはない、慎重の上にも慎重であるべき二国間の軍事上のトラブルで先にキレたのは日本の首相であり、その結果、ケンカを売られた格好(かっこう)の韓国も引くに引けなくなって、この泥仕合になっているのである。
 さらに言えば、今回の韓国軍のレーダー照射は、自衛隊を含む各国の軍隊の感覚では、実は日本政府が言うような間一髪の事態ではないのではないか。ミサイル発射寸前の危険行為と言うわりには、公開された自衛隊機内の会話はあまりに平静ではないか。ひょっとしたら私たち国民は、こうして国家に扇動されていくのかもしれない。ふと、そんなことも思う。


 残念ながら日本政府は、戦後賠償問題においても、正確な物言いをしていない。昨年(2018年)10月に韓国の大法院(最高裁)が元徴用工の訴えを認めて新日鉄住金に賠償を命じて以降、日本は首相も外務大臣も、1965年の日韓請求権協定により戦後賠償問題は両国間で最終的に解決済み、と声高に繰り返している。あたかも韓国の司法が国際法を無視していると言わんばかりだが、一方的な暴言は日本のほうではないだろうか。
 1991年の外務省の国会答弁で、当該の協定については、国が国民の請求権について外国と交渉する権利(外交保護権)を相互に放棄したものであって、個人の請求権の消滅は意味しないとされた。これが日本政府の公式見解であり、2007年には最高裁も同様の解釈を示している。
 そして2000年以降、強制連行された元中国人労働者たちが起こした裁判では、中国が日本に対する戦後賠償の請求権を放棄した日中共同宣言に基づき、原告の訴えは棄却されたが、その一方で、個人の請求権は消滅していないという原則の下、被害者救済のために鹿島建設や西松建設と原告らの間で和解が進められた。
 当時新聞が伝えた和解の内容をうっすら記憶している日本人として、今回の徴用工判決について日本側が鬼の首を取ったように国際法違反だの、断固たる措置だのと口を揃えていることに大きな違和感を覚える所以(ゆえん)である。
 韓国の司法は、そもそも慰安婦や徴用工のような反人道的不法行為は日韓請求権協定の埒外(らちがい)という立場であり、それに従って新日鉄に対する個人の訴えを認めたに過ぎない。一方の日本は法理上、個人の請求権について裁判沙汰にする権能は認めていないが、請求権自体は韓国と同様に有るとしているのだ。そうだとすれば、日韓には被害者救済のために歩み寄る余地があるはずである。


 日本政府は韓国政府とともに和解を後押しすべき立場にあり、韓国の司法判断を非難するのはお門違いもはなはだしい。戦前の植民地支配を振り返れば、日本は人権が重視されるいまの時代にふさわしい和解の道を探る責務も負っている。かつて鹿島建設や西松建設にできたことが、新日鉄にできないわけもあるまい。
日本の政治家が戦後賠償問題は解決済みと豪語するのは、日本に対する韓国国民の根深い「恨」の火に油を注ぐ浅慮だが、それ以上に、人間として恥ずかしいと私のささやかな良心が言っている。



●解説
高村薫さんは、1953年大阪市生まれ。会社勤めを経て作家に。93年「マークスの山」で直木賞。96年「レディ・ジョーカー」で毎日出版文化賞、2016年「土の記」で、野間文芸賞、大佛次郎賞、毎日芸術賞をそれぞれ受賞。社会評論も積極的に行っている。大法院判決の3か月後に高村さんが書いた文章を、本人の許可を得て掲載させていただいた。
文中で言及されている「西松建設訴訟」については、当サイト内「疑問2 日韓が協力して解決することは本当に不可能か」で説明している。(リンク)

2020年6月9日火曜日

軍需会社の労働者はすべて「徴用工」となった

軍需会社徴用規則(1943年)

厚生省令第五十二号
軍需会社徴用規則左の通定む
昭和十八年十二月十七日
厚生大臣 小泉親彦

〔第一~第三条略〕
第四条 指定軍需会社の生産担当者及当該軍需会社の営む軍需事業に従事する者は左に掲ぐるものを除くの外徴用せられるたるものと看做す指定軍需工場の生産担当者及当該指定軍需工場に於て行ふ軍需事業に従事する者に付亦同じ
〔一~十四の各号については略。陸海軍軍人や年齢14歳未満の者、常勤の従業委員以外の者などを除外対象とする規定〕
〔第五~第七条略〕

第八条 前条の徴用告知書には左に掲ぐる事項を記載すべし
一 徴用せられたるものと看做さるべき者の氏名、出生の年月日及本籍
二 従事すべき総動員業務を行う指定軍需会社又は指定軍需工場の名称
三 従事すべき総動員業務、職業及場所
四 其の他必要と認むる事項
〔第九~十四条略〕

附則
本令は公布の日より之を施行す


出典:『官報』第5080号、19431217日〈リンク
●解説

 労働力の不足のなかで戦争遂行のための生産を維持するため、日本帝国政府は、1943年末、新たな施策を打ち出した。政府が指定した「軍需会社」「軍需工場」の従業員を、原則すべて、国家総動員法第4条にいう徴用された者と見なすというものである。それを規定した厚生省令が、この軍需会社徴用規則である。これによって徴用されたとみなされた者は、勝手に職場を移れないし、命じられた業務を続けないと、国家総動員法違反で懲役1年ないし罰金1000円以下の処罰の対象となった。

 しかも、それまでの国民徴用令による徴用では、徴用期間は通常2年とされていたが、軍需会社徴用規則によって、軍需会社等の従業員を徴用されたと見なす期間は無期限となった。第8条には、期間について記載する規定がなかったのである。

 なお、軍需会社の指定は、第一弾として1944118日に行われた。指定された会社の名前は『官報』に掲載されている(軍需省・陸軍省・海軍省・運輸通信省告示第1号、1944118日、〈リンク〉)。そこには、20181030日の韓国大法院判決で勝訴となった原告が務めていた日本製鉄株式会社という文字も確認できる。

 つまり、日本製鉄に勤務していた原告たちは、厳密な意味での「徴用工」にほかならない。「彼らは徴用工ではない」と語った安倍首相らの言葉は、全くの間違いなのである。

2020年6月8日月曜日

「5日以内に労働者を集めよ」と総督府無理強い

労務動員実施計画に依る朝鮮人労務者の内地移入斡旋要綱(1942年)

 

労務動員実施計画に依る朝鮮人労務者の斡旋に依る内地移入に関しては別に定むるものを除くの外本要綱に基き之を実施す。

 

第一 通則

 本要綱に依り内地に移入せらるべき朝鮮人労務者は総て之を労務動員産業に従事せしむるものとす。

 本要綱に依り内地に移入せしむべき朝鮮人労務者の数は毎年度労務動員の実施計画に示さるる数を限度とするものとす。朝鮮人労務者にして出動期間満了し帰郷したるものの補充に付ては爾後同数を本要綱に依る方法に依り移入せしめ得るものとす。

 本要綱に依り斡旋したる朝鮮人労務者の処遇に付ては出来得る限り内地人労務者との間に差別なからしむるものとす。

 本要綱に依り斡旋する朝鮮人労務者の出動期間は原則として二箇年とするものとす。

第二 斡旋の申込及び処理

〔一~四については略〕

 

五、職業紹介所及び郡島道より前項の割当通牒を受けたるときは五日以内に更に邑面別選出人員を決定し直に別紙第六号様式に依り邑面に通牒すると共に別紙第七号様式に依り道に報告するものとす。

六、職業紹介所及府邑面は常に管内の労働事情の推移に留意精通し供出可能労務の所在及供出時期の緩急を考慮し警察官憲、朝鮮労務協会、国民総力団体の他関係機関と密接なる連絡を持し労務補導員と協力の上割当労務者の選定を了するものとす。

 

〔以下略〕

 

●解説

 

 赤字は当サイトによる。いわゆる「官斡旋(あっせん)」の手続きや留意事項を記した、朝鮮総督府の公文書。19449月から始まる、国家総動員法・国民徴用令による「徴用」だけが政策的な動員だとする論者もいるが、それは無理な解釈である。この文書の第二の六に記されているように、官斡旋の段階であっても、地方末端の役場の役人や警官が、企業の派遣した募集担当者=労務補導員と協力しながら、動員すべき者を確保することを指示している。そもそも「官斡旋」という言葉の意味を考えれば、行政が関与していることはすぐ分かる。

 

   また、第二の五からは、邑と面(日本の町と村にあたる役場)が、郡・島・道(道は都道府県レベルの地方行政機関、郡と島は邑・面の上部にある地方行政機関の名称)から指示を受けたら、日本内地に送り出すべき労働者を5日以内に選んでいたことが分かる。


   
現実的に考えてみよう。見ず知らずの村にやってきた企業の募集人が、たった5日のうちに、「ちょうど日本に働きに行きたいと思っていました」「炭鉱でも土木工事現場でもいいからともかく仕事をください」という人をどれだけ探し出せるだろうか。そもそも交通不便な村のなかを回ること自体が容易ではなかったはずである。また、そこの村人も、たとえ「今の生活では食っていけない」「日本で金を稼げるのなら行ってみたい」と漠然と考えていた人であったとしても、いきなり5日後に日本に行けと言われても困ったはずだ。


 
いくらのんびりした村であっても、1週間後にやる予定の農作業もあれば、家族の結婚や出産といった予定も、それなりにあってもおかしくない。結局、本人の意思とは無関係の強制連行で人集めをやるほかなかったのである。

 

   なお、通則の三で、わざわざ、朝鮮人労働者について「出来得る限り」日本人と差別がないようにと述べているのは、実際には差別が問題になっていたからだと推測できる。また通則の四では、出動期間は原則2年としているが、実際には期間延長を強いられたケースが多発したことが知られている。

 

「夜襲」的動員:小暮泰用「復命書」⑤

() 動員の実情

徴用は別として其の他如何なる方式に依るも出動は全く拉致同様な状態である
其れは若し事前に於て之を知らせば皆逃亡するからである、そこで夜襲、誘出、其の他各種の方策を講じて人質的掠奪拉致の事例が多くなるのである、何故に事前に知らせれば彼等は逃亡するか、要するにそこには彼等を精神的に惹付ける何物もなかったことから生ずるものと思はれる、内鮮を通じて労務管理の拙悪極まることは往々にして彼等の身心を破壊することのみならず残留家族の生活困難乃至破滅が屢々あったからである


(出典:内務省嘱託小暮泰用より内務省管理局長竹内徳治宛「復命書」)

●解説

文中下線は当サイトによる。中央政府官僚の小暮泰用が、1944731日付で上司に提出した報告書である。内容は、彼が朝鮮に出張して調査した戦時下の朝鮮の行政や民衆の動向。

労務動員の実情について、はっきり「拉致同様」と述べている。夜襲のように、夜にやってきて連れて行ったり、内容をきちんと告げずに誘い出したり、といった方法をとらなければ、必要な労働者数を確保できなかったことを、官僚たち自身が知っており、しかもそれは、中央政府の重要部署でも共有されていたのである。

なお、「徴用は別として」とあるのは、この時点での、国家総動員法第4条・国民徴用令による徴用は、特別な事例――特殊な技術者や労務管理が一応はしっかりしていた軍関係の職場など――に限定されていたためである。つまり、それ以前に行われていた官斡旋(かんあっせん)などの動員が、法的根拠もないのに実態として強制で、ひどく暴力的なものであったことが、この史料からも明白である。

強制連行は19449月以降、朝鮮で国民徴用令による徴用が始まって以降に限定されるという主張を繰り返している論者は、この史料をどう読むのだろうか。

「労働力供給は頭打ち」:小暮泰用「復命書」④

内務省嘱託小暮泰用より内務省管理局長竹内徳治宛「復命書」より

 () 労務給源

朝鮮内の労務給源は既に頭打の状態にあると云ふのが実状であらうと思はれる
今尚余裕があると見る向も相当にあるが然し之れは頭数のみを見、人は男女共に内地人男女と同等の能力を有するものと云ふ前提の下に立ってゐる見解である、端的には労銀の想外の昂騰が其の一つの証拠であり又朝鮮人の婦女子は潜勢力としては存在するが現実の家計収入をもたらすべき労働力としては一般に評価し得ない実状にある、斯の如く観じて来るときは朝鮮内の労務給源は非常に逼追を告げてゐると云ふべきである


(出典:内務省嘱託小暮泰用より内務省管理局長竹内徳治宛「復命書」)

●解説

中央政府官僚の小暮泰用が、1944731日付で上司に提出した報告書である。内容は、彼が朝鮮に出張して調査した戦時下の朝鮮の行政や民衆の動向。

1930年代までの朝鮮では、「農村過剰人口」が問題となっていた。衛生状況の改善等により人口が増加している一方、それに見合った耕作地の拡大がなかったことが背景にあった。朝鮮農村で生活できない人びとは、満州に移動したり、日本内地にやってきたりした。

そのことから、朝鮮では人が余っているのだ、彼らを連れて来て日本内地で働かせればよいという認識が、労務動員政策の担当者の間にはあった。だが、小暮が朝鮮を視察した19446月時点では、すでに朝鮮でも労働力不足が明白となっていた。

にもかかわらず、この年の日本政府は、朝鮮人の動員を増やそうとしていた。同年の動員計画では、日本の炭鉱や軍需工場に配置する朝鮮人は29万人とされていた。前年度までの計画では毎年812万人程度だった。その数字も小さいものではなかったが。遊んでいる人などいない、それどころか働き手が不足している農村から、むりやり新たに人を出せ、というのが労務動員の実情だった。

「官斡旋は徴用と同じ」:小暮泰用「復命書」③

内務省嘱託小暮泰用より内務省管理局長竹内徳治宛「復命書」より

(イ)朝鮮に於ける労務動員の方式

凡そ徴用、官斡旋、勤労報国隊、出動隊の如き四つの方式がある

徴用は今日迄の所極めて特別なる場合は別問題として現員徴用(之も最近の事例に属す)以外は行はれなかった、然し乍ら今後は徴用の方法を大いに強化活用する必要に迫られ且つ其れが予期される自体に立到ったのである

官斡旋は従来報国隊と共に最も多く採用された方式であって朝鮮内に於ける労務動員は大体此の方法に依って為されたのである

又出動隊は多く地元に於ける土木工事例へば増米用の溜池工事等への参加の様な場合に採られつつある方式である、然し乍ら動員を受くる民衆にとっては徴用と官斡旋時には出動隊も報国隊も全く同様に解されて居る状態である

(出典:内務省嘱託小暮泰用より内務省管理局長竹内徳治宛「復命書」)

 ●解説

中央政府官僚の小暮泰用が、1944731日付で上司に提出した報告書である。内容は、彼が朝鮮に出張して調査した戦時下の朝鮮の行政や民衆の動向。

この時点では、朝鮮では国家総動員法第4条・国民徴用令による「徴用」は、日本内地行きの労働者を確保する方法としては行われていない。官斡旋(かんあっせん)といわれる方式で行われていた。

これについて小暮は、動員される民衆にとっては徴用も官斡旋も同様に理解されていると記している。無理やり連れていかれることに変わりはないからということだろう。

「家族は悲惨な状況」:小暮泰用「復命書」②

内務省嘱託小暮泰用より内務省管理局長竹内徳治宛「復命書」より

 斯して送出後の家計は如何なる形に於ても補はれない場合が多い、以上を要するに送出は彼等家計収入の停止となり作業契約期間の更新等に依り長期に亘るときは破滅を招来する者が極めて多いのである、音信不通、突然なる死因不明の死亡電報等に至ては其の家族に対して言ふ言葉を知らない程気の毒な状態である、然し彼等残留家族は家計と生活に苦しみ乍ら一日も早く帰還することを待ちあぐんで居る状態である、私が今回旅行中慶北義城邑中里洞金本奎東(二十三才)なるものが昭和十八年七月一日北海道へ官の斡旋に依り渡航した家庭を直接訪問して調査したるに、最初官の斡旋の時は北海道松前郡大沼村荒谷瀬崎組に於て本俸九十五円、手当を加へ合計月収百三十円となる見込みとの契約にて北海道より迎へに来た内地人労務管理人に引率され渡航したる後既に一年近くになっても送金もなければ音信もない家に残された今年六十三才の老母一人が病気と生活難に因り殆んど頻死の状態に陥って居る実情を目撃した

〔略〕

 右の如く送出後殆んど音信を断ち尚家庭より通信するも返信なく半年乃至一年を経るも仕送金無きものもありて其の残留家族特に老父母や病妻等は生不如死〔生きていながら死んだも同じ〕の如き悲惨な状態であるのみならず其の安否すら案じつつ不安感を有する者極めて多く、此の如きは当事者の家庭現状にのみ限らず今後朝鮮から労務者送出上大なる影響を与ふるものとして憂慮に堪へないのである


(出典:内務省嘱託小暮泰用より内務省管理局長竹内徳治宛「復命書」)

 解説

内務省官僚小暮泰用が1944731日付で上司に提出した報告書の続きである。日本内地行きの労働者はもともとさまざま理由による控除で手取りが少なかったことを説明したあとの文章である。強制貯蓄があって、家族送金ができないことや、日本に行った子どもが音信不通となった母が、死にそうな状態に陥っていたケースがあったことが報告されている。

「人質的略奪的拉致」:小暮泰用「復命書」①

内務省嘱託小暮泰用より内務省管理局長竹内徳治宛「復命書」より

  従来朝鮮に於ける労務資源は一般に豊富低廉と云はれて来たが支那事変が始つて以来朝鮮の大陸前進兵站基地としての重要性が非常に高まり各種の重要産業が急激に勃與し朝鮮自体に対する労務事情も急激に変り従って内地向の労務供出の需給調整に相当困難を生じて来たのである、更に朝鮮労務者の内地移住は単に労力問題に止らず内鮮一体と云ふ見地からして大きな政治問題とも見られるのである

 然し戦争に勝つ為には斯の如き多少困難な事情にあっても国家の至上命令に依って無理にでも内地へ送り出さなければならない今日である、然らば無理を押して内地へ送出された朝鮮人労務者の残留家庭の実情は果して如何であらうか、一言を以て之れを言ふならば実に惨憺目に余るものがあると云っても過言ではない

 蓋し朝鮮人労務者の内地送出の実情に当っての人質的掠奪的拉致等が朝鮮民情に及ぼず悪影響もさること乍ら送出即ち彼等の家計収入の停止を意味する場合が極めて多い様である、其の詳細なる統計は明かでないが最近の一例を挙げて其の間の実情を考察するに次の様である

 大邱府の斡旋に係る山口県下沖宇部炭鉱労務者九百六十七人に就て認査して見ると一人平均月七十六円二十六銭の内稼働先の諸支出月平均六十二円五十八銭を控除し残額十三円六十八銭が毎月一人当りの純収入にして謂はば之れが家族の生活費用に充てらるべきものである


(出典:内務省嘱託小暮泰用より内務省管理局長竹内徳治宛「復命書」)

解説

中央政府官僚小暮泰用が1944731日付で上司に提出した報告書である。内容は、自分が朝鮮に出張して調査した、戦時下の朝鮮の行政や民衆の動向で、内部向けの資料なので、いわば日本帝国にとっての「不都合な真実」も隠されていない。労務動員については、日本行きの朝鮮人労働者は「無理を押して」送り出された人びとで、送り出しの実情については「人質的略奪的拉致」であると記されている。ちなみにこの報告が行われた時点では、国家総動員法第4条・国民徴用令の手続きによる「徴用」ではなく、「官斡旋(かんあっせん)」が日本行きの労働者確保の方法だった。

しかも、送り出した労働者がさまざまな天引きによって、朝鮮の家族に送ることが出来るお金は僅少だった。ここで記されている13円少々の額では、一家が暮らすことは難しかったはずである。これは、同じ時期のソウルの賄い付きの家政婦の月給と同じ程度である。そして、日本行きの労働者からの仕送りが実際にはなされず、連絡自体が途絶えることも往々にしてあった。残された家族にとって動員は、「家計収入の停止」を意味したのである。

2020年6月7日日曜日

「連行したが全員逃亡」:警察官の回想③

江原道地方・鉄原警察署長を務めた細谷宇一の回想

 「鉄原郡庁から割り当てられた内地行き供出労務者を出発前日鉄原郡庁に連行した。郡庁で調査の上邑内の各旅館に分宿させたが、翌日定刻に集合しないので調査した結果全員逃亡したことが判明したと郡庁から署に連絡があった。(中略)調査の結果専業農家の経営の中心人物のみで自宅に帰っておった。住民は労務供出を回避するため、家計を相続する長男が分家して一家創立する者もあった。総督府施政で最も嫌われたのは労務供出の行政であったように思われてならない」


(細谷宇一『官界人生行路回顧の一端』山形県天童市、1985年)

解説

 細谷は、1920年から45年まで警察幹部として勤務した。ここで回想しているのは、彼が鉄原警察署の署長を務めていた44年のことである。

最近では、日本への出稼ぎを望んでいた朝鮮人も多かったとして、「強制連行はなかった」との主張を繰り返す論者もいる。しかし、実際には、「専業農家の経営の中心人物」、つまりは離村や転職のインセンティブなどまったく持たない者まで、当局は動員しようとしていた。当然ながら彼らは動員を嫌がり、逃亡して抵抗した。労務動員が嫌われたのは、現場で業務に携わっていた者であれば、よく知っていることだった。

「家族は号泣に次ぐ号泣」:警察官の回想②

江原道地方・春川署幹部だった田代正文の回想

 「当地では軍需産業に対する労務補給のため朝鮮人の労務者供出が盛んに行われていました。これは警察が郡庁とタイアップして村落を駆け回り労務者の供出に片棒をかついだ恰好(かっこう)でした。しかし、いざ送り出す段になると駅頭に於ける被供出家族の号泣に次ぐ号泣は誠に哀れであり、むしろ悲惨な状態を現出したものでした。

                                 (金剛会編『江原道回顧録』同会刊、1977年)
  
解説

『江原道回顧録』は、江原道で勤務した警察官たちの回想記を戦後まとめた記録集である。田代は194310月に春川署に着任している。

19422月以降、日本内地行きの労働者の取りまとめは、地方の役場の役人や警官が協力して行い企業側に引き渡すという、官斡旋(かんあっせん)という方式で進められた。これは、その業務にあたった担当者としての回想である。

1943年の段階で、もはや朝鮮農村部にも「供出」できる労働力は枯渇していた。家族の「号泣」は、望んで配置先に赴く者がいなかった実情があったためである。


「説得、半ば強制的」: 警察官の回想①

江原道地方で警察官をしていた伊藤梅之の回想

「近東面(注:地名)は開戦以来面長以下全職員実によく上司の命令に忠実熱心で勤労動員に、食糧の動員に、その他戦時下の面行政に抜群の成績を挙げていた。特に内地向け勤労者供出には割当100%の成績を挙げていた。それだけに関係者の説得には半ば強制的とも思われる手段で強行されていたのが実情であったように思われる」 



(金剛会編『江原道回顧録』同会刊、1977年)

解説

当時の日本にとって「食糧動員」も重要課題だった。植民地朝鮮は重要な食糧生産地であり、農業生産の中心人物は連行しないことが建前だったが、末端の担当者は「割り当てを消化しておけばよい」という態度だった。1944年には江原道郡内労働力も枯渇していたため、上記の伊藤など当時の警察官たちが回想しているような事態が起こったとみられる。  

「学校に行ける」とだますー名古屋高裁

三菱名古屋・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟での被害事実認定(2007年5月31日) 

「本件勤労挺身隊員らが挺身隊員に志願するに至った経緯については、

 ①勧誘を受けた当時の年齢(控訴人朴○○は13歳、同金惠〇は13歳、同陳〇〇は14歳、同梁錦徳は14歳、同李〇〇は14歳、金淳〇は14歳、金福〇は14歳、控訴人金〇珠は14歳)がいずれも若年であり、十分な判断能力を有するまでに至っていない年代であり、 それまでに上記第2の2(2)のとおりの教育を受けていたこと、

 ②これに対して勧誘者(校長、担任教諭、憲兵、隣組の愛国班の班長)は、校長や担任教諭など信頼していた者、さらには敬意をはらうべき者であって、その影響力は大きかったことを前提に、

 ③勧誘内容(「日本に行けば学校に行ける。」、「工場で働きながらお金も稼げる。」あるいは単に「お金がもらえる。」、「2年間軍需工場で働いて勉強すれば、その後卒業証書がもらえる。」)が向学心を持ち上級学校への進学を願う者にとっては極めて魅力的なものであったものの、そのような勉学の機会の保障は制度として予定されていなかったし、実際にもなされていなかったこと、

 ④親などの反対に対しては、校長から「お前の親は契約を破ったから刑務所に入れられるだろう。」(控訴人朴○○)、「…行かなければ、警察がお前の親を捕まえて閉じ込める。」(控訴人梁錦徳)、憲兵から「一度行くと言った人は絶対にいかなければならない。行かなかったら警察が来て、家族、兄さんを縛っていく。」(控訴人陳〇〇)などと脅されたり、無断で印鑑を持ち出して書類を揃えたことを知りながら黙認したりしたこと(控訴人李○○)を総合すれば、

 各勧誘者らが本件勤労挺身隊員らに対して、欺罔あるいは脅迫によって挺身隊員に志願させたものと認められ、これは強制連行であったというべきである」

 「本件勤労挺身隊員らの本件工場における労働・生活については、同人らの年齢、その年齢に比して過酷な労働であったこと、貧しい食事、外出や手紙の制限・検閲、給料の未払などの事情が認められ、これに挺身隊員を志願するに至った経緯なども総合すると、それは強制労働であったというべきである」



原審:平成十一年(ワ)第764号損害賠償等請求事件(甲事件)
平成十二年(ワ)第5341号損害賠償等請求事件(乙事件)
平成十六年(ワ)第282号損害賠償等請求事件(丙事件)
控訴審:平成十七年(ネ)第374号損害賠償請求等控訴事件

 ●解説

女子勤労挺身隊(ていしんたい)員らが原告となった名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟で、名古屋高裁は強制連行、強制労働の事実を認める判決を出している。

三菱重工を相手とする訴訟3件のうちの一つで、韓国人女子勤労挺身隊の動員被害者6人、遺族1人が起こした訴訟。名古屋の三菱重工・道徳工場には約300人の朝鮮人女子勤労挺身隊が動員されて航空機製造に従事し、東南海地震により6人が死亡。原告らは強制連行・強制労働の不法行為、立法・行政不作為による国家賠償、国際法違反、安全配慮義務違反を問い、被害者1人当たり3000万円の賠償等を求めた。裁判所は請求を棄却したが、強制連行・強制労働の事実については詳細に認定した。

 ちなみに「女子勤労挺身隊」とは、通っていた学校の教員や役場の職員、警官らの強い勧誘のもとで結成され、軍需工場等で働かされた未婚女性の組織のこと。労働力の不足の深刻化を受けて、国策として結成が奨励され、日本内地では地域や学校単位で多数結成された。朝鮮では、日本語のできる少女たちが、働きながら学べるといった言葉を信じて志願させられた。

上記の判決全文は、以下で読むことができる。
 http://justice.skr.jp/judgements/59-2.pdf 
(「法律事務所の資料棚」)

「強制労働は違法」と大阪高裁

旧日鉄大阪製鉄所徴用工訴訟の事実認定(大阪高裁)

日鉄大阪製鉄所元徴用工損害賠償請求訴訟の控訴審判決での被害事実認定(20021119日)

「日本製鐵の経営する大阪製鉄所に付属する本件寮における控訴人らの居住状況と大阪製鉄所内での労働内容は、技術を習得させるという日本製鐵の事前説明から予想されるものとは全く異なる劣悪なものであって、控訴人らは、一部賃金の支払を受けたものの、具体的な賃金額も知らされないまま、残額は強制的に貯蓄させられ、多少の行動の自由を認められた時期はあったものの、常時、日本製鐵の監視下に置かれて、労務からの離脱もままならず、食事も十分には与えられず、劣悪な住環境の下、過酷で危険極まりない作業に半ば自由を奪われた状態で相当期間にわたって従事させられ、清津においても、短期間とはいえ、1日のうち12時間も土木工事に携わるというさらに過酷な労働に従事させられ、賃金の支払は全くなされていないことが認められ、これは実質的にみて強制労働に該当し、違法といわざるをえない」


原審:平成九年(ワ)第13134号損害賠償等請求事件
控訴審:平成十三年(ネ)第1859号損害賠償請求等控訴事件

解説

旧日本製鉄大阪製鉄所に動員された呂運澤、申千洙が199712月に大阪地裁に起こした訴訟の控訴審判決では、大阪高裁は原告2人が強制労働を強いられたことを上記のように認定している。

この訴訟は、日本で新日鉄(旧日本製鉄)を相手に起こされた2件のうち一つ。19959月に東京地裁に提訴された訴訟は原告11人が全員元徴用工の遺族であったが、この訴訟の原告2人は、ともに生存している元徴用工本人であった。

2人は1943年に平壌で旧日本製鉄の募集広告(新聞、ポスター)を見て応募し、大阪製鉄所で働くことになった。そのため、裁判所は、事実認定において「強制連行」とは認めなかったが、その労働については「強制労働」と認めた。

判決全文は以下で読むことができる。http://justice.skr.jp/judgements/53-2.pdf (「法律事務所の資料棚」)

「安全配慮義務を欠いた」と広島高裁


三菱広島徴用工訴訟の事実認定(広島高裁)

三菱広島・元徴用工被爆者未払賃金等請求訴訟の控訴審判決での被害事実認定(2005年1月19日)

「控訴人らの徴用に関しては、当時の法制下では徴用それ自体は当然に違法とはいえないものの、その実行に当たって、国民徴用令等の定めを逸脱した違法な行為が行われたことが窺われ、旧三菱についても、この点で被控訴人国と同じく不法行為が成立する余地があるものと認められる」


「原爆が投下された後に、旧三菱が控訴人らの救護や保護のための何らの措置も講じず、そればかりか食事等も与えることなく控訴人らを放置していたこと、

また、その後、工場の操業が不可能となり、昭和20年(1945年)8月15日には戦争も終わり、徴用を継続する必要はなくなったにもかかわらず、一部を除いて、控訴人らを送還したり、控訴人らが自ら帰還するのに協力することもなかったことは、前記認定したとおりであり、

控訴人らが朝鮮から徴用されて旧三菱の上記各工場に配置され、施設内の寮での生活を義務付けられながら、作業に従事してきたという事実を考えると、少なくとも、これらの点は旧三菱の控訴人らに対する安全配慮義務違反であるというべきでる。

したがって、旧三菱は、これにより控訴人らが被った損害について賠償すべき責任を負うものと認められる」



原審:平成七年(ワ)第2158号損害賠償等請求事件
平成八年(ワ)第1162号損害賠償等請求事件
平成十年(ワ)第649号損害賠償等請求事件
 控訴審:平成十一年(ネ)第206号損害賠償請求等控訴事件

●解説

三菱重工・広島(機械製作所、造船所)に動員された被害者らが起こした訴訟の控訴審判決で、広島高裁は被告の三菱重工の不法行為責任、安全配慮義務違反を認定している。

日本で三菱重工を相手に起こされた3件の戦後補償裁判の一つ。原告は韓国人徴用被爆者46人。彼らは、強制連行・強制労働に加え、原爆被爆後に放置されたことについて、国と企業に対し、国際法・不法行為、損失補償、安全配慮義務等により各1100万円の支払い、企業に対し未払い賃金の支払いを請求した。

裁判では、国が原告らに対して原爆医療法、原爆特別措置法を適用せず、放置したことについては不法と認め、慰謝料等の支払いを命じる一方(一部勝訴)、強制連行・強制労働に対する賠償請求は棄却した。

しかし上記のように、徴用過程における違法と原爆後に放置した事実、安全配慮義務違反については認めている。

判決全文は以下で読むことができる。
http://justice.skr.jp/judgements/41-2.pdf (「法律事務所の資料棚」)