2020年8月30日日曜日

日本の徴用工裁判での「和解」内容③――不二越訴訟最高裁判所和解(2000年7月11日)

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 請求の趣旨及び原因は、名古屋高等裁判所金沢支部が平成八年(ネ)第158号強制連行労働者等に対する未払賃金等請求事件について、平成十年1221日に言い渡した判決(その付加訂正して引用する富山地方裁判所平成四年(ワ)第263号事件の判決を含む。)の事実適示のとおり

 

和解条項

一 被上告人兼相手方(以下「被上告人」という。)と、上告人兼申立人三名(以下「上告人三名」という。)並びに利害関係人徐廷烈、同金喜庚、同梁春姫及び同権炳淑(以下上告人三名と右利害関係人四名を併せて「上告人等七名」という。)並びに利害関係人太平洋戦争韓国人犠牲者遺族会及び金景錫(以下右利害関係人両名を「利害関係人二名」という。)とは、第二次世界大戦中、上告人等七名が被上告人において労働したことについて真摯(しんし)に受け止め、本和解をもって一切を解決するものとする。

 

二 被上告人は、当時、上告人等七名を含む日本国内外の多くの人々が、被上告人において労働したことをあらわすため、被上告人の会社構内に碑を設置するほか、上告人等七名及び利害関係人二名に対し、解決金(注)を払うものとする。

 

三 利害関係人二名は、当時の被上告人での労働にかかわることについて、本和解をもって一切を解決したことを確認し、以後被上告人に対し何らの請求をしない。

 

四 上告人三名は本件請求を放棄する。

 

五 上告人等七名及び利害関係人二名と被上告人との間には、本和解条項に定める外に何らの再建債務のないことを相互に確認する。

 

六 訴訟費用及び和解費用は、第一審、第二審及び上告審を通じ、各自が負担する。

      

               (注)解決金の総額は3500万円

(出典:『不二越訴訟裁判記録Ⅰ 主張・判決編』不二越訴訟弁護団、2001年5月1日)

 

 

解説

この訴訟は1992930日、富山県の企業「不二越」に動員された元女子勤労挺身隊員2名、元徴用工1名の計3名が富山地裁に起こしたもので、未払い賃金の支払いと強制連行に対する賠償(1人当たり500万円ないし1000万円)、謝罪広告を求めていた。

裁判所は一審、二審ともに、不二越に対する原告の請求を時効などを理由に棄却。その一方で、不二越の強制動員、強制労働の事実や賃金未払いについては、判決の中で詳細に認定した。

1996724日に出された富山地裁一審判決では、不二越の従業員が、不二越に行けば「女学校に通え、そこを卒業でき、お金もたくさんもらえ、タイプライター、ミシン、お花が習える」、「勉強も仕事もでき、上級学校にも行くことができるし、お金も余計稼ぐことができる」などと勧誘して、女子勤労挺身隊員を連れてきた事実を認定した。しかし、実際には、「勉強する機会も、女学校に通うことも、生け花、裁縫、タイプを教えてもらうこともなかった」、「学校に行かせてくれるよう何度も頼んだが、『ちょっと待っていろ』と言われたのみで学校に通わせてもらえなかった」。不二越は、動員時にまだ国民学校(小学校)6年生、12歳であった原告を「欺罔(ぎもう:だますこと)」したのである。これは明らかに強制連行であった。

また、一審判決では、賃金はもらえず、はがき、切手が買える程度の小遣いをもらっただけであった事実、1週間交替の昼夜二交替制で過酷な労働を強いられた事実、「食事も十分ではなく、道に生えている芹(せり)を食べたり」するような状態にあった事実をも認定した。これは強制労働に当たる。 

この訴訟では、一審に続き、二審も原告敗訴となったが、上告後の2000711日、最高裁で和解が成立した。この和解は裁判所(最高裁)で交わされたが、原告3名以外の「利害関係人」も含めて被告会社が和解したことが大きな特徴であった。一、二審判決で会社側が抗弁したにもかかわらず裁判所が原告らの被害事実を具体的に認定したこと、原告らが米国で別訴を提起する動きを見せていたことなどが、被告会社の和解解決選択の背景にあっと言われている。

2020年8月23日日曜日

日本の徴用工裁判での「和解」内容①――新日鉄釜石訴訟(1997年9月)


  艦砲射撃にて戦災死した朝鮮人徴用工の慰霊に対する協力について

 

 当社は、昭和20年、日本製鐵株式会社釜石製鐵所にて連合軍による艦砲射撃により戦災死した朝鮮人徴用工の慰霊に対し、次の協力を行うものとする。

 

1、      釜石市における慰霊の実施

(1)              釜石市における慰霊の実施(当社の釜石製鐵所内にある鎮魂社において、合祀祭を執り行い、艦砲射撃により戦災死した朝鮮人徴用工25名の名簿を奉納し、慰霊する。)

(2)              白南悦を除く原告10名が釜石市において1回は慰霊できるよう旅費を負担(原告1人あたり70万円)

 

2、      韓国における合同慰霊への旅費の負担

(1)              原告10名が韓国で行われる合同慰霊に出席できるよう旅費を負担(原告1人あたり30万円)

(2)              白南悦が韓国で行われる合同慰霊に出席できるよう旅費の一部を負担(5万円)

 

3、      個別慰霊に関わる費用の一部拠出

白南悦を除く原告10名に対し、永代供養に関わる費用の一部拠出(原告1人あたり100万円)

 

4、      上記1(2)、2、3に記載する協力の実施は、本件に係る訴訟が取り下げられた時に行うこととす
る。

以上

 

 (上記1に記載する釜石における合祀祭に出席する代表者の旅費及び上記2に記載する韓国における合同慰霊に係る費用の一部については上記1から3に記載する協力とは別途負担する。)

 

              新日本製鐵株式会社総務部

                総務・組織グループリーダー

                       吉武 博通

                国内法規グループリーダー

                       唐津 恵一  

 

1997年9月18

 

 

出典:日本製鉄元徴用工裁判を支援する会・発行

『虹 日韓民衆のかけ橋 -パート2-』対新日鉄和解と2年間のあゆみ

1998年1月28日発行


解説

この訴訟は、1995年9月に、旧日本製鉄釜石製鉄所に動員された韓国人元徴用工の遺族が起こしたもので、遺骨の引き渡しや未払い金の支払い、謝罪と補償などを求めていた。原告11名のうち10名は、戦争末期に連合国軍の艦砲射撃によって亡くなった元徴用工の遺族、1名は労災で死亡した元徴用工の遺族であった。いずれの原告も亡くなった自分の父親ないし叔父の遺骨が未返還であるとして、その返還を求めていた。

これに対して被告新日鉄は、①戦前の日本製鉄と戦後の新日鉄は別法人であるという「別会社論」、②時間が経ちすぎているという「時効・除斥」を理由として、未払い金等の支払いには応じなかった。

ただし、遺骨の返還については、新日鉄側も対応すべきだと考えた。当時、新日鉄内でこの訴訟を担当した人物は「遺骨返還は法的責任があろうとなかろうと、企業としては人道的観点から真摯(しんし)に対応すべきだと考えました」と語っている(『しんぶん赤旗 日曜版』2019929日号)。

新日鉄は、遺骨の所在調査のため、釜石で調査するだけでなく、韓国に渡って遺族を含む関係者からの聞き取りなどを行ったが、結局、遺骨を発見するには至らなかった。

新日鉄は原告と協議を行い、艦砲射撃で戦災死した元徴用工遺族原告に、「釜石製鉄所内での慰霊の実施」「韓国における合同慰霊への旅費負担」「個別慰霊に関わる費用の一部負担」の名目で、1人当たり200万円を支払うことを提示した(労災死亡した元徴用工遺族については、労災死亡後に遺族に遺骨を届けたとの記録があるとして慰霊金の支払いを認めず、合同慰霊祭への出席費用として5万円を支払う、とした)。

原告は、新日鉄の誠実な対応を評価し、1997年9月18日、この申し出を受け入れた。この和解により、原告は一審審理の途中で新日鉄に対する訴訟を取り下げた。一方、国に対する訴訟はその後も継続した。

当時、原告は次のような談話を残している(『虹 日韓民衆のかけ橋 -パート2-』による)。

「我々はこうした新日本製鉄株式会社の対応を高く評価するとともに、遺骨調査への協力に対して謝意を表明する」

「さらに、このたび、新日本製鉄株式会社がこれまで遺骨がないことにより故人の魂を鎮めることができなかった我々の事情に鑑み、慰霊のための協力を我々に申し入れたことも、高く評価できる」

この新日鉄釜石訴訟は、1990年代に入って起こされたいくつかの戦後補償裁判における初めての和解事例だった。

2020年8月20日木曜日

日本の徴用工裁判での「和解」内容②―日本鋼管訴訟(1999年4月)

日本鋼管損害賠償請求訴訟(金景錫訴訟)控訴審

和解条項(1999年4月6日、東京高裁法廷)


一、控訴人(注:元朝鮮人労働者の金景錫氏)と被控訴人(注:日本鋼管)は、韓国と日本の過去の歴史において不幸な一時期があったことを真摯(しんし)に受け止め、今般以下のとおり和解することとする。

二、控訴人は、一九四二年当時、戦時という特殊な状況、諸般の情勢の下、兄の身代りに已むを得えざる苦渋の選択として祖国より日本に渡り、被控訴人の川崎工場において労働し、一九四三年四月、工場内で発生した暴行事件によって重症を負い、重大な後遺症を残したと主張する。 これに対し被控訴人は、一部資料により、被控訴人構内において同年何らかの騒動事件が発生したことは推察できるものの、当該事件と控訴人の関わりは判然とせず、控訴人の主張を確認する手だてはないと主張する。

 当時から五〇年以上経過した今となっては、当該事件の加害者を特定することは極めて困難であることから、控訴人は、本件については被控訴人に責任を問うことは法的に困難が大きいとの認識を前提にするもやむを得ない、一方被控訴人は、当該事件に巻き込まれて負傷し障害が残ったとの控訴人の主張を重く受けとめ、控訴人が障害をもちながら永きにわたり苦労したことに対し、真筆な気持ちを表するものであり、その意思を表するため、金四一〇万円を支払う。

三、控訴人と被控訴人の間には、前項に定める外に何らの債権債務のないことを相互に確認する。


 

出典:梓澤和幸(日本鋼管訴訟主任弁護士)「日本鋼管訴訟」『軍縮問題資料』200612月号

http://www.azusawa.jp/jinken/nihonkoukansoshou-0612.html

 

解説

 韓国在住で、戦時中に日本鋼管(NKK、現JFEグループ)川崎製鋼所に動員された金景錫(キム・キョンソク)氏が、強制連行のうえ強制労働を強いられ、さらに拷問を受けたとして、日本鋼管に1000万円の損害賠償と謝罪を求めていた訴訟で成立した和解の条項。

金氏は日本鋼管にいた19433月、職場近くの書店で『半島技能工の育成』という本を購入。その中で、日本鋼管の労務担当者が朝鮮人労働者について「いかにも何か怠惰」「機能方面が非常に劣る」などと蔑視・侮辱する発言をしているのを読んだ。怒りを覚えた金氏は、これを職場の仲間たちと回し読みした。

410日ごろ、川崎製鉄所で働く約800人の朝鮮人労働者が就労を拒否。「故郷へ帰らせてくれ」「会社は謝れ」などと会社に要求した。金氏はこのストライキの「首謀者」として捕らえられ、憲兵、警官、会社従業員らに天井から吊るされ、木刀や竹刀でめった打ちされる拷問を受けた。その結果、金氏は「右肩肝骨骨折及び右腕脱臼の傷害」を負った。その後も十分な治療がなされなかったため、右肩関節の連動制限の後遺障害が残ってしまった(この事件は、『特高月報』一九四三年八月分の「朝鮮人運動の状況」のなかで「日本鋼管に於ける移入朝鮮人労務者を民族的に煽動せる事件」として記録されている)。

東京地裁は強制連行、強制労働を否定し、請求を棄却したが、「拷問・傷害罪」については事実と認定し、日本鋼管の拷問への関与を認めた。金氏は控訴したが、その審理中に和解協議が進み、1999年4月6日、東京高裁で裁判長の立ち会いの下に和解が成立したのであった。この日、鬼頭季彦裁判長が、和解条項を法廷で読みあげた。その際、満席の傍聴席から拍手が起こったという。

和解条項の全文は、「法律事務所のアーカイブ」中の「日本戦後補償裁判総覧」№15「日本鋼管訴訟」の「1999. 4. 6和解」(http://justice.skr.jp/judgements/15-2.pdf)で読むことができる。

月に1人は朝鮮人が感電死

 

「1944年8―9月頃から強制連行による韓国朝鮮人徴用工が川崎重工泉州工場の労働力に加わった。全員が朝鮮半島からの徴用工で在日はいなかったと思う。1次は南朝鮮、2次は北朝鮮からと地域別徴用を受けて来場し、3次か4次まであり、宿舎も南北が別になっていた。海防艦と呂号潜水艦(輸送用)を建造していた工場では、中学生は主に組立現場に配属され、小生所属の組にも数名の韓国朝鮮人が学徒と同じ臨時工として配属された」

 

「造船現場で彼等の肉体労働は概して不器用で危なっかしく、最低の作業環境下で事故が多かった。しかし当時の強制連行が労働の適不適に関係なく無差別に実行し、人数合わせをしたらしく、全般的に先職は千差万別であり、最盛期にその人数は動員学徒を含め4000名を越えたという」

 

「作業手袋や防護眼鏡は充分に与えられなかった。鉄板カッターは大中小と三種あり、小型(約30cmはば)が最も危険で、何故か手指を落す韓国朝鮮人が多かった。人差し指の第一関節での切断が最も多く、4本同時に失った人もいた」

 

「最も頻度の高い事故は感電であり、環境は極端に悪く高圧電線に触れる事故は日常茶飯事で小生も数回経験した。朝鮮人の事故死は月に1人位の頻度で、殆どの原因は感電であったと思う」

 

「工場には"保安係"の腕章を巻き綺麗な作業服を着て場内を闊歩(かっぽ)している連中がいたが、彼等は安全管理が目的ではなくサボっている徴用工や学徒を摘発しては危険な現場へ追い立てるための存在であった故に、常に彼等に注意を払わねばならなかった」

 

 

出典:齊藤勇夫さん「学徒勤労動員の想い出(川崎重工泉州工場)」

(かながわ歴史教育を考える市民の会ホームページ)

 http://www.reksimin.server-shared.com/ronbun_4.htm

 

解説

斎藤さんは、1944715日から、学徒勤労動員で川崎重工泉州工場に配置された。当時、大阪府立岸和田中学4年。川崎重工は当時も大企業で最先端の事業場である。しかも、製造するのは戦争遂行になくてはならない艦船だった。となれば、必要な物資は十分に配給して当然の職場のはずだが、この時期には、手袋や防護眼鏡といった、労働安全のために必須の用品すら事欠く有様だったことがわかる。

加えて、長時間労働が常態化していた。軍需省の調査では造船の場合、111.5時間が平均的な就労時間だった。これでは逆に疲弊して能率も上がらず、作業のミスも増えるのは当たり前だった。工場に配置された朝鮮人は、ある程度日本語に通じていたはずだが、慣れない環境で、母語ではない言葉での指示を受ける労働だから、疲労が蓄積し事故が多くなる理由は十分にあったと推量される。

なお、学徒動員された日本人は、19448月施行の学徒勤労令によって法的には国家総動員法に基づく動員の対象者となり、戦後の援護法によって、労働災害で負傷者や、死亡した者の遺族は一時金や障害年金受給の対象となった。

朝鮮人の被徴用者も、やはり国家総動員法に基づく動員だったが、戦後、日本国籍を離脱したことから、負傷、死亡した者に対する日本政府の援護措置は何も行われていない。

なお、この回想は朝日新聞系の情報紙「定年時代」20198月上旬号にも、ほぼ同じ内容で掲載されている。

2020年8月5日水曜日

「誰にもしゃべるな」と言われた



 私は、戦時中は、この「徳義(とくよし)炭鉱」に働いていなかったので、ここに朝鮮人労働者たちが、戦時中に働かされていたことについては、実際には目撃していないので、よく知らない。1954年に福岡県大刀洗からここに来て、この「徳義炭鉱」で19729月の閉山まで、18年間もここで坑内夫として働いた。今は、じん肺病患者に認定されて、わずかな手当てをもらっている。 
 「徳義炭鉱」(中島鉱業)の人事課長として、ここの職員住宅に住んでいたAさんのことは、よく知っている。Aさんは、海軍にもいたこともあるということだが、剣道も強い人でした。一緒に働いていた期間は短かったが、日本人や朝鮮人の労務者たちが、鉢巻をしめたり、まただらしない風体をしていると、呼びとめて、厳しくしかりとばしていたのを、何度も見たことがある。1954年、中島炭鉱の閉山騒動のストライキがあったとき、Aさんは「こんなところにおられるか」と立腹して、部下を引き連れて、小岩炭鉱に移っていった。それは、とてもえらい剣幕だった。
 このAさんは、戦時中の朝鮮人労務者のことについて、私たちに対して、いつも「ここには(徳義炭鉱)朝鮮人労務者はいなかったことにするんだ」、「朝鮮人労務者のこと、戦時中のことは、一切だれにも話すな」と言っていた。長い間、私たちはその言葉に従っていたが、もういいのではないかと思っている。


(出典:長崎朝鮮人の人権を守る会『原爆と朝鮮人』第5集、1991年)

解説

 徳義炭鉱は、長崎県松浦市にあり、1941年に開坑した。戦時中に朝鮮人労働者が働いていたことは、355人分の未払い給与が供託されていることが分かっているので間違いない。給与を受け取って運よく帰国した人などがいればもっと多くなるが、少なくとも355人の朝鮮人労働者がいたのである。にもかかわらず、Aさんが「ここにはいなかったことにするんだ」と隠そうとしたのはなぜだろうか。そこでの虐待など、不都合な事実の発覚を恐れたと考えるのが自然だろう。証言者の中垣一馬さんは1922年生まれ。証言の採取は1989831日で、当時、67歳だった。

総督府事務官「半強制的な供出をさらに強化」



…朝鮮の職業紹介所は各道に一ヶ所ぐらゐしかなく組織も陣容も極めて貧弱ですから、一般行政機関たる府、郡、島を第一線機関としてやってゐますが、この取りまとめが非常に窮屈なので仕方なく半強制的にやってゐます。その為輸送途中に逃げたり、折角山(炭鉱、鉱山)に伴れていっても逃走したり、或は紛議を起すなどと、いふ事例が非常に多くなって困ります。しかし、それかと云って徴用も今すぐには出来ない事情にありますので、半強制的な供出は今後もなほ強化してゆかなければなるまいと思ってゐます。


(出典:「座談会 朝鮮労務の決戦寄与力」『大陸東洋経済』1943年)

解説
1943年に行われた座談会のなかでの、朝鮮総督府労務課事務官・田原実の発言。前年2月から行われていた「官斡旋」段階の様子を伝えている。
本来、労務動員はやみくもに人をつかまえて何も考えずに送り込むことではない。その労働現場や、地域で必要不可欠な仕事をしていた人が奪われては困る。他方、動員先でも、明らかに不向きな人が送り込まれたら、かえって迷惑だからだ。
つまり、能力や現在の仕事などの諸事情を踏まえ、動員すべき人とその配置先を決めるのが、国家総動員法に基づく徴用の本来の制度設計だった。
日本では、職業紹介所が全国津々浦々に設置された。ところが、朝鮮では「各道に一カ所」つまり、日本で言えば各県に1つしかなかった。これではどの地区に、動員できる人員がどれだけいるかの把握は不可能だ。しかも、すでにこの時期には朝鮮農村でも労働力不足となっていた。
にもかかわらず、「官斡旋」では、数日間のうちに、ある村から50名や100名を集めろという指令が下された。
だから、無理やり、強圧的な脅しをかけてでも動員する、となっていたのである。朝鮮総督府の役人自身の「半強制的」という言葉は、婉曲ながらそれを表現している。

当時の日本の検察が記した強制連行の証言



三井芦別炭礦に於ける最近移入の朝鮮人労務者は殆ど老人(五〇-六〇歳)及年少者(十五、六歳)にして重労に耐へざる者多く之等の者の言を綜合するに農耕に従事中強制的に狩集められたる旨洩(もら)しあり


(出典:「内地北部方面に於ける朝鮮人労務者の動向竝労務管理の欠陥状況」)
『朝鮮検察要報』第9号、194411

解説
『朝鮮検察要報』は、朝鮮にいた検察関係者の内部資料とみられ、朝鮮統治に関係して注目すべき事象をピックアップしていると言ってよい。上記の文章は、日本に動員された朝鮮人労働者がしばしば争議を起すことについて、日本の企業側の労務管理に問題があることを報告している文章の一部。「芦別炭礦」は北海道芦別市にあった。
今の日本では、「野良仕事に出ていてそのまま動員された」という当時の朝鮮人の証言を大げさな話と思う人も多いかもしれない。しかし、そうした現実は時の検察関係者の言葉としても記録されているのである。

巡査が村から「しょっぴいて来る」


内地に連れられて行ったら生きているのか死んでいるかわからぬ…〔戦争中、石炭は〕みんな朝鮮人が掘っておった。ですから、朝鮮人の労務なかりせばそれはできなかったわけです。だから絶対必要なものだったのです。しかしこれも有志で行く者は一人もない。何となれば、日本に行ったらどうなるかわからぬということで、結局行くのはいやだ…それでトラックを持って行き、巡査を連れて行って、村からしょっぴいて来るわけです。そういうことをしたわけです。…一般の民衆は、米をとられ、人間をとられ、真鍮の食器を取上げられて戦争をのろう気持ちが強い、それを警察の力でまあまあ何とかやっていました。


(出典:大蔵省官房調査課金融財政事情研究会『終戦前後の朝鮮経済事情』、1954年)

解説
出典元の『終戦前後の朝鮮経済事情』は、大蔵省官房調査課にいた人物が金融財政政策の歴史をまとめるために関係者からインタビューしたシリーズの一つ。謄写版刷りで、関係者のみで共有されたものとみられる。上記の証言をした水田直昌は、1925年に朝鮮総督府に着任。1937年から45年まで財務局長だった。労務動員を直接担当する部署ではないが、朝鮮の「民情」を十分に知りうる立場にあった。
「有志で」とは、自分の意思で、という意味。「米をとられ」とは食糧供出が過酷であったこと、「真鍮の食器を取上げられ」とは金属供出のことを指している。それと並んで「人間をとられ」たのである。
水田はここで、自らの意思に反して連れていかれるケースが多発したことで朝鮮民衆の不満が高まったため、「警察の力」が必要となったと語っている。

三年間、夏服一枚で働かされた朝鮮人も


大東亜戦争勃発後□『朝鮮人の皇民化』が叫ばれ軍国主義的□□に名をかりて地方から狩り立てて来たばかりの新参労務者に訓練が強ひられたが、三ヶ月間は殆ど睡眠時間は与へられていなかった/また日本人労務者の不足対策として坑内危険作業は主として朝鮮人労務者に振り向けられたにも拘らず、待遇□日本人とはまったく差別せられ日給において五十銭の差すらつけられた、衣服の至急は故郷を出たとき冬着のものはそれ一着夏服のものは夏服だけで三年の間一着も支給されない労務者すら別な方面にあったのである『飢えたる奴隷』といふが、鉄鎖を引きずらないだけのちがひで、全く言葉通りである


(出典:「坑内の監獄部屋で火あぶり殺しの極刑 虐げられた朝鮮人鉱夫」)
『神奈川新聞』19451120日付

解説
終戦の3か月後に神奈川県の地方紙に掲載されたもの。戦時中に朝鮮人が劣悪な労働を強いられたことを伝えている。この時期には、戦時中の虐待に抗議した朝鮮人の労働争議が頻発しており、記事の背景にはそうした事情も関係していると思われる。□は原文が判読不明の部分。

前夜か当日に徴用を告げられ、連行される



或る地方では官斡旋通知又は徴用令状(徴用令書)を予めこれを本人に交付すれば逃げる心配があるといって、警察官や面吏員が其の通知を出頭前日の晩或は出頭日に当って本人に交付しながら即座で引張って来る。ことここに至れば本人も家族も突然の事で恐怖心を起し、哭(な)いたり憐みを訴へたりすることも往々あるがこれは結局この地方の人達は徴用の事を聞くと丸(まる)で死地に連れて行かれるのも同様のものと思ひ益々忌避し逃亡者を出す様な傾向があるのである。


(出典:安興晟煥「勤労動員の当面課題」『国民文学』194410月号)

解説 
雑誌『国民文学』は、植民地朝鮮で戦時期に唯一発行されていた文学雑誌で、日本語で書かれていた。その全編にわたって、朝鮮人がいかに日本に協力すべきか、といった論考が載せられている。この文章の著者である安興晟煥も、朝鮮人対日協力者として、労務動員の意義を朝鮮の民衆にどのように理解させ、着実に進めていくべきかを論じている。
だが安興は、実際には朝鮮での労務動員がかなり無理に進められていることを指摘する。徴用の通知は前夜あるいは当日に突然示され、即座に「引っ張って来る」。連れていかれるのは、どこかも分からない、言葉も通じない日本本土なのだ。これでは、不安に駆られて逃亡者が続出するのは当然だろう。