2020年8月5日水曜日

巡査が村から「しょっぴいて来る」


内地に連れられて行ったら生きているのか死んでいるかわからぬ…〔戦争中、石炭は〕みんな朝鮮人が掘っておった。ですから、朝鮮人の労務なかりせばそれはできなかったわけです。だから絶対必要なものだったのです。しかしこれも有志で行く者は一人もない。何となれば、日本に行ったらどうなるかわからぬということで、結局行くのはいやだ…それでトラックを持って行き、巡査を連れて行って、村からしょっぴいて来るわけです。そういうことをしたわけです。…一般の民衆は、米をとられ、人間をとられ、真鍮の食器を取上げられて戦争をのろう気持ちが強い、それを警察の力でまあまあ何とかやっていました。


(出典:大蔵省官房調査課金融財政事情研究会『終戦前後の朝鮮経済事情』、1954年)

解説
出典元の『終戦前後の朝鮮経済事情』は、大蔵省官房調査課にいた人物が金融財政政策の歴史をまとめるために関係者からインタビューしたシリーズの一つ。謄写版刷りで、関係者のみで共有されたものとみられる。上記の証言をした水田直昌は、1925年に朝鮮総督府に着任。1937年から45年まで財務局長だった。労務動員を直接担当する部署ではないが、朝鮮の「民情」を十分に知りうる立場にあった。
「有志で」とは、自分の意思で、という意味。「米をとられ」とは食糧供出が過酷であったこと、「真鍮の食器を取上げられ」とは金属供出のことを指している。それと並んで「人間をとられ」たのである。
水田はここで、自らの意思に反して連れていかれるケースが多発したことで朝鮮民衆の不満が高まったため、「警察の力」が必要となったと語っている。