2020年7月20日月曜日

軍艦島のリアル(姜道時氏)


「労務係は3人交代で、皮バンドでなぐった」

 昭和15年(1940年)約2000人の同胞と一緒に石炭船で樺太に運ばれた。三菱・塔路炭坑で4年間働き、妻子も呼び寄せた。ところが199月、樺太の炭鉱整理で端島への配置転換を命令され、妻子を樺太に残したまま約100人の仲間を端島へ来た。
 寮に入れられ12交代の重労働。労務係の監視が厳しく、疲れて仕事に出なかったり、家族への手紙に島の実情を書いたりすると、すぐに連れて行かれた。労務事務所前の広場で、手を縛られたままの朝鮮人を3人の労務係が交代で軍用の皮バンドでなぐった。意識を失うと海水を頭から浴びせて地下室におしこめ、翌日から働かせた。

 「1日に23人がこうしたリンチを受けていた。屋外でやったのは私たちへの見せしめのつもりだ。とても口では話せないくらいひどいリンチだった」と姜さんは語った。


(出典:『長崎新聞』1974428日付)


●解説
 資料は、軍艦島=端島礦が閉山し、住民全員が島から離れたころに掲載された地元の新聞記事。
 戦争末期の日本では、エネルギー源の石炭の必要量確保が困難となっていた。機械化による生産性向上も不可能であり、朝鮮や中国からの強制連行を続けてはいたものの、現場の労働力は足りなかった。残された方法は、その場にいる労働者を、ともかく全員、長時間働かせることだけだった。その時期の労働の様子が語られている。
 なお、サハリンからの配置転換は、輸送の関係で便利な九州などの炭鉱に労働力を集中させるために行われた。そのため、サハリンに残された妻子と離散状態を長く強いられることになった朝鮮人も少なくない。