2020年5月29日金曜日

「きつい仕事は朝鮮人」と炭鉱労務係

私が岩屋炭鉱(貝島炭鉱株式会社岩屋鉱業所)に入ったのは昭和二十年五月でした。…炭鉱での仕事は労務で、朝鮮人徴用鉱員係というものでした。…

人手不足の解決策として徴用されたのが朝鮮人でした。仕事の中でも、一番危険が伴う採炭や掘進を主にやらされていたのです。決められた出炭量を出すまでは作業を終わることもできず、かと言って腹いっぱいご飯を食べられるわけでもなく、何かにつけてたたかれるといった毎日でした。

きつい仕事に耐えられず逃げ出した朝鮮人もいましたが、ほとんどがつかまって連れもどされました。つかまった朝鮮人は、みんなの見せしめに、木刀やらで打ったたくのです。とにかく、こちらにさからわせず、見くびらせないようにと、それはひどいものでした。

徴用で連れて来られた朝鮮人達の多くは、日本に行けば食い物があると聞かされて来ていたそうですが、大体どんぶり一杯だけの飯で働かされていたのです。…食べられそうな虫とか青草を「これも食える、これも食える」と言って、ゆでたりして食べていました。



出典:『戦争を知らない世代へⅡ㉑佐賀編 強制の兵站基地―炭鉱・勤労報国・被爆の記録』
第三文明社、1985

解説

創価学会青年部反戦出版委員会がまとめた記録。敗戦直前、炭鉱の労務係として朝鮮人に接していた日本人池上捨広さんの証言。リンチが横行していたことや食料不足のなかで酷使されていたことが語られている。この人は敗戦後、退職金を支払えとの要求する朝鮮人の説得にも苦労した。その時の朝鮮人の様子について、「今まで押さえていたものが一挙に爆発したようでした」とも語っている。

「凄惨なリンチ死」特高月報と目撃者証言


◎『特高月報』19444月分

福岡県田川郡川崎町所在古河鉱業所大峯炭坑第二坑にて、三月十三日午前六時同坑指導員五名が移入朝鮮人労務者の入坑前の検身に際し、窃盗及逃走容疑ある李山興麟当三十五年を発見詰所に連行殴打し、遂に同人は午後一時三十分死亡せり。

本事件の発生に甚しく狼狽せる鉱山側に於ては警察当局に直ちに連絡せず善後処置考究中、早くも右事実を聞知したる被害者の同僚鮮人約四十五名は班長等の扇動もありて極度に憤慨し、各自棍棒を携行の上同日午後五時二十分頃被害者を収容せる同坑附属病院及指導員詰所を大挙襲撃し指導員四名に重軽傷を与へ加ふるに其の他の同坑寄宿寮に居りたる朝鮮人労務者約二七十名も亦付和雷同して動揺の極に達したり。

尚一方坑内作業中の移入朝鮮人労務者約四十名も前記事実を伝聞して昇坑し来り、各自棍棒等を携行不穏の挙に出でんとせるに至り炭鉱側に於て初めて所轄警察署に通報せり。

右通報に接したる所轄田川警察署に於ては特別警備計画に基き署員の非常招集を行ひ四十名の警察官を動員して炭坑に急行し、事件関係指導員十名、集団暴行事件関係移入朝鮮人四十五名を検挙し其他の者に対しては鎮撫に努めたる結果、同日午後七時三十分頃完全に平静に帰したるを以て、爾後の警戒竝に入坑督励に当りたり。〔以下略〕


◎朝鮮人労働者・鄭奇嶺の証言

私は一九四四年に古河大峯炭鉱に連れてこられたのですが、そこで凄惨なリンチを目撃しました。たしか、一九四四年の三月の一〇日ころのことだったと思います。…

〔全羅道出身のある労働者が〕帽子の中にいくらかの金をかくし持っているのを身体検査でみつかってしまったんです。たぶん、郷里を出る時、親たちが心配して持たした金だとおもうのですが…

全羅道の人を裸にして、ケーブル線がありますね、直径二~三センチぐらいの、あのケーブル線で力いっぱい殴りつけるんです。殴られるたびに皮膚が破けて、血がほとばしり、ピチャーといやな音がしたものです。…

そんなことが何回か繰り返されると全羅道の人は、ぐったりしてしまい、からだが冷たくなって来ました。労務の連中もさすがに驚いたのか、熱いフロの中にその人を入れましたが、すでに息はたえて死んでいました。…


(出典:金賛汀『証言 朝鮮人強制連行』新人物往来社、1975年)

●解説

福岡県の筑豊の炭鉱で、1944年に起こった、炭鉱の労務係による朝鮮人労働者に対するリンチ殺人事件を伝える資料と、当時それを目撃していた朝鮮人・鄭奇嶺さんの証言である。鄭さんは忠清北道陰城郡出身。1944年古河大峯炭鉱へ来た。当時24歳だった。

『特高月報』は、全国の特高警察がその月に起こった注目の事件の情報を共有するために作成された秘密リポートだ。これに続く部分では、筑豊鉱山地帯特別警部部隊から13人の武装兵が派遣されたことも伝えている。

また、目撃者の証言からは、お金をもっていただけで逃亡を予定していたのではないかと疑われ、むごたらしいリンチが加えられたことが分かる。当時の炭鉱では暴力的な労務管理が行われていた。労務係が労働者に暴行を加えて半殺しの目に合わせていたという話は珍しくない。

しかし、実際に殺してしまったという事例を示す資料はさすがに少ない。しかも上記の特高月報の報告によれば、会社側は、朝鮮人労働者の死亡を確認した後も、すぐには警察に連絡せずに、「善後処置」を考えていたというのである。こうした「善後処置」によって闇に葬られたリンチ殺人が他にもあったのではなかったかとも考えさせられる資料である。

「朝鮮人寮は監獄のよう」と日本人徴用者

 私は、終戦当時、19歳であり、昭和19年11月から昭和20年5月まで徴用として強制的に入坑させられました。…

 朝鮮の人もいました。朝鮮人は、私たち日本人と違い、ものすごい仕打ちで絶対監視付きであり、差別的扱いでした。

    朝鮮人の寮は私たちの寮から離れており、まわりは壁でかこまれていて、出入り口は一カ所しかなく、窓は格子付きでまるで監獄みたいな所です。

    苦しくて逃げだす人もあるのですが、見つかると半殺しにあうような仕打ちでした。私たち日本人は、このような仕打ちは受けませんでした。…

 当時は「炭鉱に行くなら、兵隊に行った方がましだ」と言う人が多かったようです。


出典:『戦争を知らない世代へⅡ㉑佐賀編 強制の兵站基地―炭鉱・勤労報国・被爆の記録』
第三文明社、1985


●解説

 創価学会青年部反戦出版委員会がまとめた記録。炭鉱で働いていた日本人中原貞男さんの証言。証言のタイトルは「悲惨極まりない炭鉱生活」となっている。当時の炭鉱労働が過酷であったことはよく知られていた。炭鉱より軍隊がまし、というような認識すら一般的だった。

   そして、さらにひどい待遇のもとで朝鮮人が働いていたことを、実際に見聞していた日本人も少なくなかった。なお、この日本人の証言にある「徴用」が、実際に徴用令書をもらっての徴用だったのかは不明である。

野中広務が見た朝鮮人の「強制労働」

私の生まれ育った京都府船井郡園部町(現在の南丹市)がある口丹波(くちたんば)といわれる地方には戦争前、マンガンなどの鉱山がありました。

 僕は子どものころ、鉱山で働く朝鮮人が、背中にたくさんの荷物を背負い、道をよろよろ歩く、疲れ切ってうずくまるとムチでパチッと叩(たた)かれ、血を流しながら、はうようにまた歩き出す、そんな姿を見てきました。また私の家から300メートルほど先に大阪造兵廠(しょう)が疎開してきて、兵器を造るため連行されてきた朝鮮人が同じようにひどい仕打ちで働かされていました。



(「赤旗」2009627日付)



●解説


 野中広務氏は、内閣官房長官や党幹事長を努めた保守政治家である。野中氏は2003年秋の総選挙を機に衆院議員を引退。その後、憲法や戦争と平和、政治の原点をテーマに全国各地を講演に歩き、テレビや雑誌上で積極的に発言を続けたが、18年に亡くなった。

2020年5月27日水曜日

総督府幹部「トラックで村からしょっぴいた」


〔朝鮮人労働者の〕相当な部分は石炭を掘るのに使ったわけです。

 ですから、戦争中最もよけいとれたときは、一年に五千何百万トンもとれましたが、そのときはみんな朝鮮人が掘っておった。

 ですから、朝鮮人の労務なかりせばそれはできなかったわけです。

 だから絶対必要なものだったのです。

 しかしこれも有志で行く者は一人もない。

 何となれば、日本に行ったらどうなるかわからぬということで、結局、行くのはということになりました。

 いやだというわけですから出すわけに行かない。しかし、朝鮮人が来てくれなければ軍港を築く労力も足らない、石炭も掘れない、これでは戦争に負けるぞと言う。

 最後はいつも戦争に負けるぞと言う。

 しばらくのしんぼうだから、戦争に負けてはいけないからというこの至上命令には、いつでも総督府は負けてしまうのです。

 それでトラックを持って行き、巡査を連れて行って、村からしょっぴいて来るわけです。

 そういうことをしたわけです。


(大蔵省官房調査課金融財政事情研究会、水田直昌述『終戦前後の朝鮮経済事情』)
注)読みやすさを考慮して句点ごとに改行しています。 

●解説

 朝鮮総督府財務局長を1937年から戦争終結まで勤めた水田直昌氏の証言。「財務局長」は総督府の財務トップに当たる地位である。上記の記録は、大蔵省内部に設けられた研究会での聞き取り記録。財務局は直接、動員を担当したわけではないが、当然、様々な情報を得て職務を遂行していたことだろう。トラックを派遣し、警官に人を集めさせていたことについては、水田氏以外にもいくつかの証言がある。 


「軍艦島」のリアル(徐正雨氏)


14歳の時、役場から徴用の赤紙が来た。

名古屋に父母、佐世保に親戚がいて逃亡するつもりでした。

端島で糠米袋のような服を与えられ、日本刀をさげた者が命令した。

うつぶせで掘る狭さ、暑さと疲労で眠くなり、生きて帰れないと思いました。

落盤で月に45人は死んだ。

食事は玄米20%に豆カスの飯。

鰯(イワシ)を丸つぶしたおかず。

毎日のように下痢し衰弱しました。

仕事を休むと監督のリンチでした。


(長崎市史編さん委員会編『新長崎市史』第4巻、2013年)
注)読みやすさを考慮して句点ごとに改行しています。

●解説

   長崎市が刊行した『新長崎市史』から。徐正雨氏は1928年、慶尚南道生まれ。一般に軍艦島として知られている端島(はしま)にあった「端島炭坑」で労働を強要された。

   端島炭坑については、労働者の住宅などの福利厚生も整えられていたとしばしば語られている。大資本の三菱財閥が経営していた優良炭鉱であるから、その通りだったのかもしれない。しかし逆に言えば、そんな優良炭鉱ですら戦時下は上記のような状態だったということであり、中小資本の炭鉱はもっと状況がひどかったことが推測できる。

  なお、証言に出てくる「徴用の赤紙」というのは、本人の記憶違いか、あるいは比喩的な表現と思われる。徴用令書は赤い紙ではないし、この時期はまだ国民徴用令に基づく炭鉱への配置は行われていない。役場の職員なり、町内会の有力者なりに呼び出され、断ることも許されずに端島に行くことになったということかもしれない。断ることも許されずに端島に行くことになったということかもしれない。


 「日本刀を下げた者」という証言だが、あくまで本人の印象であり、本当に日本刀だったかは判断が分かれるところだろう。「落盤で月に45人は死んだ」との部分は、残されている火葬認許証の交付申請の数を踏まえると多すぎる。「落盤が多かった」という認識と、「月に数人は、亡くなったり、死ぬような目にあったりした」という記憶が、ないまぜになっているとみられる。

麻生炭鉱で15時間坑内に(文有烈氏)

   全羅南道で百姓をしていた文(有烈)さんが「日本は戦争に勝たんとならん。国のためだ」とトラックに乗せられ、人さらいのごとく連れ去られたのは昭和151940)年216日だった。
文さんにとって、この日こそ、あまりにも痛ましい運命の転換点だった。
結婚して4か月しか経っていない5つ年下の妻と妹の3人とも引き裂かれたのだ。
身体検査が終わり、連絡船に押し込まれ、同胞50人と着いたところは福岡県嘉穂郡庄内町の麻生赤坂炭鉱だった。
とくに忘れられないのは、そのころのひもじさ。はじめのころは産業戦士としてもてはやされ、飯はどんぶり盛り、イモの入った汁で、待遇はよいほうだった。
だが、戦局の悪雲が日本をおおいはじめるにつれて飯は7分から5分に、汁はすきとおって、自分の顔が映った。そのうえ労働は15時間。朝のうちに昼弁当までたべてしまい、入坑するときは空弁当をさげていった。
  (宮田昭「友よ、筑豊の地底で安らかに」『潮』19719月号)
 解説

人さらいのように連れて来られた、ロクな食事も与えられずに、労働時間は15時間という過酷な内容の証言。文有烈氏は1971年の時点で55歳、福岡県鞍手町に在住。70年代には、日本の加害の歴史を見つめようという機運がようやく始まったころで、こうした強制動員被害者の声が雑誌などで取り上げられることもあった。当事者の多くがこの世を去った今となっては、貴重な記録である。

総督府幹部「志望を無視した強制供出」

1944412日の道知事会議での朝鮮総督府政務総監訓示

 内地移住半島人労務者の取扱に付きましては従来一定期間に之を補充交替せしむることとし単身渡航せしむるを例とし来つたのでありますが其の後の成績に徴し実際の事情に鑑み今回之等労働者の家族呼寄せを認むるの途を拓き且つ其の事情に応じ雇用期間延長の奨励を為さしめ得ることと致し、之と同時に処遇改善方に付種々折衝を重ねて居る次第であります。
 官斡旋労務供出の実情を検討するに労務に応ずべき者の志望の有無を無視して漫然下部行政機関に供出数を割当て下部行政機関も亦概して強制供出を敢てし斯くして労働能率の低下を招来しつゝある欠陥は断じて是正せねばなりません。


(4月13日、『朝鮮総督府官報』掲載)

●解説

 朝鮮総督府のナンバー2である田中武雄・政務総監が、日本内地行き労働者の動員が本人の意思を無視した「強制供出」になっていると指摘。労働能率の低下につながっていると批判している。総督府のトップは軍人であり、実際に民政など行政施策についてよく把握して指示を出していたのは政務総監であった。田中はこの後、内閣書記官長、いまでいう官房長官の地位に就いている。

 文中に「官斡旋(あっせん)」とあるように、この会議が行われた時点では、日本内地行き労働者の動員では、まだ国家総動員法第4条に基づく国民徴用令による「徴用」は実施されていない。「徴用」以前から、本人の「志望の有無を無視」した「強制供出」が行われていたのである。

2020年5月1日金曜日

「その他」について