2020年5月29日金曜日

「凄惨なリンチ死」特高月報と目撃者証言


◎『特高月報』19444月分

福岡県田川郡川崎町所在古河鉱業所大峯炭坑第二坑にて、三月十三日午前六時同坑指導員五名が移入朝鮮人労務者の入坑前の検身に際し、窃盗及逃走容疑ある李山興麟当三十五年を発見詰所に連行殴打し、遂に同人は午後一時三十分死亡せり。

本事件の発生に甚しく狼狽せる鉱山側に於ては警察当局に直ちに連絡せず善後処置考究中、早くも右事実を聞知したる被害者の同僚鮮人約四十五名は班長等の扇動もありて極度に憤慨し、各自棍棒を携行の上同日午後五時二十分頃被害者を収容せる同坑附属病院及指導員詰所を大挙襲撃し指導員四名に重軽傷を与へ加ふるに其の他の同坑寄宿寮に居りたる朝鮮人労務者約二七十名も亦付和雷同して動揺の極に達したり。

尚一方坑内作業中の移入朝鮮人労務者約四十名も前記事実を伝聞して昇坑し来り、各自棍棒等を携行不穏の挙に出でんとせるに至り炭鉱側に於て初めて所轄警察署に通報せり。

右通報に接したる所轄田川警察署に於ては特別警備計画に基き署員の非常招集を行ひ四十名の警察官を動員して炭坑に急行し、事件関係指導員十名、集団暴行事件関係移入朝鮮人四十五名を検挙し其他の者に対しては鎮撫に努めたる結果、同日午後七時三十分頃完全に平静に帰したるを以て、爾後の警戒竝に入坑督励に当りたり。〔以下略〕


◎朝鮮人労働者・鄭奇嶺の証言

私は一九四四年に古河大峯炭鉱に連れてこられたのですが、そこで凄惨なリンチを目撃しました。たしか、一九四四年の三月の一〇日ころのことだったと思います。…

〔全羅道出身のある労働者が〕帽子の中にいくらかの金をかくし持っているのを身体検査でみつかってしまったんです。たぶん、郷里を出る時、親たちが心配して持たした金だとおもうのですが…

全羅道の人を裸にして、ケーブル線がありますね、直径二~三センチぐらいの、あのケーブル線で力いっぱい殴りつけるんです。殴られるたびに皮膚が破けて、血がほとばしり、ピチャーといやな音がしたものです。…

そんなことが何回か繰り返されると全羅道の人は、ぐったりしてしまい、からだが冷たくなって来ました。労務の連中もさすがに驚いたのか、熱いフロの中にその人を入れましたが、すでに息はたえて死んでいました。…


(出典:金賛汀『証言 朝鮮人強制連行』新人物往来社、1975年)

●解説

福岡県の筑豊の炭鉱で、1944年に起こった、炭鉱の労務係による朝鮮人労働者に対するリンチ殺人事件を伝える資料と、当時それを目撃していた朝鮮人・鄭奇嶺さんの証言である。鄭さんは忠清北道陰城郡出身。1944年古河大峯炭鉱へ来た。当時24歳だった。

『特高月報』は、全国の特高警察がその月に起こった注目の事件の情報を共有するために作成された秘密リポートだ。これに続く部分では、筑豊鉱山地帯特別警部部隊から13人の武装兵が派遣されたことも伝えている。

また、目撃者の証言からは、お金をもっていただけで逃亡を予定していたのではないかと疑われ、むごたらしいリンチが加えられたことが分かる。当時の炭鉱では暴力的な労務管理が行われていた。労務係が労働者に暴行を加えて半殺しの目に合わせていたという話は珍しくない。

しかし、実際に殺してしまったという事例を示す資料はさすがに少ない。しかも上記の特高月報の報告によれば、会社側は、朝鮮人労働者の死亡を確認した後も、すぐには警察に連絡せずに、「善後処置」を考えていたというのである。こうした「善後処置」によって闇に葬られたリンチ殺人が他にもあったのではなかったかとも考えさせられる資料である。