2020年5月27日水曜日

麻生炭鉱で15時間坑内に(文有烈氏)

   全羅南道で百姓をしていた文(有烈)さんが「日本は戦争に勝たんとならん。国のためだ」とトラックに乗せられ、人さらいのごとく連れ去られたのは昭和151940)年216日だった。
文さんにとって、この日こそ、あまりにも痛ましい運命の転換点だった。
結婚して4か月しか経っていない5つ年下の妻と妹の3人とも引き裂かれたのだ。
身体検査が終わり、連絡船に押し込まれ、同胞50人と着いたところは福岡県嘉穂郡庄内町の麻生赤坂炭鉱だった。
とくに忘れられないのは、そのころのひもじさ。はじめのころは産業戦士としてもてはやされ、飯はどんぶり盛り、イモの入った汁で、待遇はよいほうだった。
だが、戦局の悪雲が日本をおおいはじめるにつれて飯は7分から5分に、汁はすきとおって、自分の顔が映った。そのうえ労働は15時間。朝のうちに昼弁当までたべてしまい、入坑するときは空弁当をさげていった。
  (宮田昭「友よ、筑豊の地底で安らかに」『潮』19719月号)
 解説

人さらいのように連れて来られた、ロクな食事も与えられずに、労働時間は15時間という過酷な内容の証言。文有烈氏は1971年の時点で55歳、福岡県鞍手町に在住。70年代には、日本の加害の歴史を見つめようという機運がようやく始まったころで、こうした強制動員被害者の声が雑誌などで取り上げられることもあった。当事者の多くがこの世を去った今となっては、貴重な記録である。