2020年8月5日水曜日

「誰にもしゃべるな」と言われた



 私は、戦時中は、この「徳義(とくよし)炭鉱」に働いていなかったので、ここに朝鮮人労働者たちが、戦時中に働かされていたことについては、実際には目撃していないので、よく知らない。1954年に福岡県大刀洗からここに来て、この「徳義炭鉱」で19729月の閉山まで、18年間もここで坑内夫として働いた。今は、じん肺病患者に認定されて、わずかな手当てをもらっている。 
 「徳義炭鉱」(中島鉱業)の人事課長として、ここの職員住宅に住んでいたAさんのことは、よく知っている。Aさんは、海軍にもいたこともあるということだが、剣道も強い人でした。一緒に働いていた期間は短かったが、日本人や朝鮮人の労務者たちが、鉢巻をしめたり、まただらしない風体をしていると、呼びとめて、厳しくしかりとばしていたのを、何度も見たことがある。1954年、中島炭鉱の閉山騒動のストライキがあったとき、Aさんは「こんなところにおられるか」と立腹して、部下を引き連れて、小岩炭鉱に移っていった。それは、とてもえらい剣幕だった。
 このAさんは、戦時中の朝鮮人労務者のことについて、私たちに対して、いつも「ここには(徳義炭鉱)朝鮮人労務者はいなかったことにするんだ」、「朝鮮人労務者のこと、戦時中のことは、一切だれにも話すな」と言っていた。長い間、私たちはその言葉に従っていたが、もういいのではないかと思っている。


(出典:長崎朝鮮人の人権を守る会『原爆と朝鮮人』第5集、1991年)

解説

 徳義炭鉱は、長崎県松浦市にあり、1941年に開坑した。戦時中に朝鮮人労働者が働いていたことは、355人分の未払い給与が供託されていることが分かっているので間違いない。給与を受け取って運よく帰国した人などがいればもっと多くなるが、少なくとも355人の朝鮮人労働者がいたのである。にもかかわらず、Aさんが「ここにはいなかったことにするんだ」と隠そうとしたのはなぜだろうか。そこでの虐待など、不都合な事実の発覚を恐れたと考えるのが自然だろう。証言者の中垣一馬さんは1922年生まれ。証言の採取は1989831日で、当時、67歳だった。