2020年8月20日木曜日

月に1人は朝鮮人が感電死

 

「1944年8―9月頃から強制連行による韓国朝鮮人徴用工が川崎重工泉州工場の労働力に加わった。全員が朝鮮半島からの徴用工で在日はいなかったと思う。1次は南朝鮮、2次は北朝鮮からと地域別徴用を受けて来場し、3次か4次まであり、宿舎も南北が別になっていた。海防艦と呂号潜水艦(輸送用)を建造していた工場では、中学生は主に組立現場に配属され、小生所属の組にも数名の韓国朝鮮人が学徒と同じ臨時工として配属された」

 

「造船現場で彼等の肉体労働は概して不器用で危なっかしく、最低の作業環境下で事故が多かった。しかし当時の強制連行が労働の適不適に関係なく無差別に実行し、人数合わせをしたらしく、全般的に先職は千差万別であり、最盛期にその人数は動員学徒を含め4000名を越えたという」

 

「作業手袋や防護眼鏡は充分に与えられなかった。鉄板カッターは大中小と三種あり、小型(約30cmはば)が最も危険で、何故か手指を落す韓国朝鮮人が多かった。人差し指の第一関節での切断が最も多く、4本同時に失った人もいた」

 

「最も頻度の高い事故は感電であり、環境は極端に悪く高圧電線に触れる事故は日常茶飯事で小生も数回経験した。朝鮮人の事故死は月に1人位の頻度で、殆どの原因は感電であったと思う」

 

「工場には"保安係"の腕章を巻き綺麗な作業服を着て場内を闊歩(かっぽ)している連中がいたが、彼等は安全管理が目的ではなくサボっている徴用工や学徒を摘発しては危険な現場へ追い立てるための存在であった故に、常に彼等に注意を払わねばならなかった」

 

 

出典:齊藤勇夫さん「学徒勤労動員の想い出(川崎重工泉州工場)」

(かながわ歴史教育を考える市民の会ホームページ)

 http://www.reksimin.server-shared.com/ronbun_4.htm

 

解説

斎藤さんは、1944715日から、学徒勤労動員で川崎重工泉州工場に配置された。当時、大阪府立岸和田中学4年。川崎重工は当時も大企業で最先端の事業場である。しかも、製造するのは戦争遂行になくてはならない艦船だった。となれば、必要な物資は十分に配給して当然の職場のはずだが、この時期には、手袋や防護眼鏡といった、労働安全のために必須の用品すら事欠く有様だったことがわかる。

加えて、長時間労働が常態化していた。軍需省の調査では造船の場合、111.5時間が平均的な就労時間だった。これでは逆に疲弊して能率も上がらず、作業のミスも増えるのは当たり前だった。工場に配置された朝鮮人は、ある程度日本語に通じていたはずだが、慣れない環境で、母語ではない言葉での指示を受ける労働だから、疲労が蓄積し事故が多くなる理由は十分にあったと推量される。

なお、学徒動員された日本人は、19448月施行の学徒勤労令によって法的には国家総動員法に基づく動員の対象者となり、戦後の援護法によって、労働災害で負傷者や、死亡した者の遺族は一時金や障害年金受給の対象となった。

朝鮮人の被徴用者も、やはり国家総動員法に基づく動員だったが、戦後、日本国籍を離脱したことから、負傷、死亡した者に対する日本政府の援護措置は何も行われていない。

なお、この回想は朝日新聞系の情報紙「定年時代」20198月上旬号にも、ほぼ同じ内容で掲載されている。