2020年6月30日火曜日

日本人元島民が記憶する「軍艦島」での虐待



泳いで逃げようとする者、杭木でイカダを組んで抜け出そうとする者―「ケツ割り」と呼ばれた脱走を試みる人もしばしばあった。(略)津代次さんも、ケツ割りに失敗しておぼれかかった男を船で助けたことがある。

 しかし、水死を免れても、脱走未遂は納屋頭と呼ばれた、いまでいう寮長から半殺しの目にあわされることを覚悟しなければならなかった。

 敗戦が近づき、男手も少なくなると、中国人の捕虜や朝鮮人が大勢連れて来られた。日本人坑夫の住んでいるところからは離れたところにまとめてほうり込まれていたが、狭い島のことである。いまでも喜代さんは、その人たちの叫ぶとも泣くともつかぬ悲しい声が耳に残っている。

 一度だけ声のする部屋をのぞいたことがある。たぶんまだ、はたち前とみえた、朝鮮人の若い男が正座させられ、ひざの上に大きな石をのせられていた。

 敗戦後間もなく、この人たちは本国に帰ったらしい。彼らをいじめぬいた会社の外勤係は、敗戦ときくと、報復をおそれていち早く身を隠したという。

(出典:『朝日ジャーナル』1974517日号)


●解説 

ルポ「ああ軍艦島―ある労働者の転職」から。19741月の三菱鉱業高島鉱業所端島鉱閉山を受けて書かれたもので、軍艦島で働いた日本人一家の軌跡をたどっている。
文中にでてくる津代次さんは、当時78歳。昭和初年、つまり1920年代末か30年代初めに、「不景気の風に吹き寄せられるように」軍艦島にやってきたという。農家の次男で実家には耕す田畑もなく、苦労の末に職を求めてのことだった。
喜代さんはその妻。1950年まで炭鉱で働いた。子どもがやはり端島鉱に務めたため、定年後も会社のアパートで暮らした。74年の閉山後は、故郷のように思っている島を見て暮らしたいとして、隣の高島に引っ越したという。
 「ケツ割り」の事例は、朝鮮人だったと特定されてはいない。軍艦島での炭鉱労働に耐えられず逃亡を試みる者は日本人のなかにもいたのであろう。記事には、「むかしは、おとなでも、会社が発行する『他行許可証』(原文ママ)がなければ桟橋を出られなかった」ともある。つまり、島の外には会社の許可なく出られなかったのだ。