2020年6月21日日曜日

高村薫「こじれる日韓 和解の道探る責務」



「サンデー時評」第4(「サンデー毎日」1923日号)


 新年早々、日韓は戦時中の強制労働に対する賠償問題に加えて、日本の自衛隊機に対する韓国海軍艦艇の火器管制レーダー照射問題がこじれにこじれている。一日本人としては、この間の韓国の一連のふるまいに不快感を覚えないわけではないが、ちょっと立ち止まって「待てよ」とも思う。
 たとえば自衛隊機が韓国軍の艦艇からレーダー照射を受けたとされる事案は、本来は日韓の防衛担当者レベルで協議する問題だろう。二国間の協力関係を前提にするなら、現場で発生するトラブルはできる限り現場で実務的に処理し、政治問題化するのを避けるのが大原則だからである。
 しかし今回は、事務レベルのやり取りを飛び越えて、官邸が早々に証拠映像の公開を指示したとされている。何のことはない、慎重の上にも慎重であるべき二国間の軍事上のトラブルで先にキレたのは日本の首相であり、その結果、ケンカを売られた格好(かっこう)の韓国も引くに引けなくなって、この泥仕合になっているのである。
 さらに言えば、今回の韓国軍のレーダー照射は、自衛隊を含む各国の軍隊の感覚では、実は日本政府が言うような間一髪の事態ではないのではないか。ミサイル発射寸前の危険行為と言うわりには、公開された自衛隊機内の会話はあまりに平静ではないか。ひょっとしたら私たち国民は、こうして国家に扇動されていくのかもしれない。ふと、そんなことも思う。


 残念ながら日本政府は、戦後賠償問題においても、正確な物言いをしていない。昨年(2018年)10月に韓国の大法院(最高裁)が元徴用工の訴えを認めて新日鉄住金に賠償を命じて以降、日本は首相も外務大臣も、1965年の日韓請求権協定により戦後賠償問題は両国間で最終的に解決済み、と声高に繰り返している。あたかも韓国の司法が国際法を無視していると言わんばかりだが、一方的な暴言は日本のほうではないだろうか。
 1991年の外務省の国会答弁で、当該の協定については、国が国民の請求権について外国と交渉する権利(外交保護権)を相互に放棄したものであって、個人の請求権の消滅は意味しないとされた。これが日本政府の公式見解であり、2007年には最高裁も同様の解釈を示している。
 そして2000年以降、強制連行された元中国人労働者たちが起こした裁判では、中国が日本に対する戦後賠償の請求権を放棄した日中共同宣言に基づき、原告の訴えは棄却されたが、その一方で、個人の請求権は消滅していないという原則の下、被害者救済のために鹿島建設や西松建設と原告らの間で和解が進められた。
 当時新聞が伝えた和解の内容をうっすら記憶している日本人として、今回の徴用工判決について日本側が鬼の首を取ったように国際法違反だの、断固たる措置だのと口を揃えていることに大きな違和感を覚える所以(ゆえん)である。
 韓国の司法は、そもそも慰安婦や徴用工のような反人道的不法行為は日韓請求権協定の埒外(らちがい)という立場であり、それに従って新日鉄に対する個人の訴えを認めたに過ぎない。一方の日本は法理上、個人の請求権について裁判沙汰にする権能は認めていないが、請求権自体は韓国と同様に有るとしているのだ。そうだとすれば、日韓には被害者救済のために歩み寄る余地があるはずである。


 日本政府は韓国政府とともに和解を後押しすべき立場にあり、韓国の司法判断を非難するのはお門違いもはなはだしい。戦前の植民地支配を振り返れば、日本は人権が重視されるいまの時代にふさわしい和解の道を探る責務も負っている。かつて鹿島建設や西松建設にできたことが、新日鉄にできないわけもあるまい。
日本の政治家が戦後賠償問題は解決済みと豪語するのは、日本に対する韓国国民の根深い「恨」の火に油を注ぐ浅慮だが、それ以上に、人間として恥ずかしいと私のささやかな良心が言っている。



●解説
高村薫さんは、1953年大阪市生まれ。会社勤めを経て作家に。93年「マークスの山」で直木賞。96年「レディ・ジョーカー」で毎日出版文化賞、2016年「土の記」で、野間文芸賞、大佛次郎賞、毎日芸術賞をそれぞれ受賞。社会評論も積極的に行っている。大法院判決の3か月後に高村さんが書いた文章を、本人の許可を得て掲載させていただいた。
文中で言及されている「西松建設訴訟」については、当サイト内「疑問2 日韓が協力して解決することは本当に不可能か」で説明している。(リンク)